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戦争の推移 日時 出来事 詳細 紀元前4000~3600年 ・エンメルカル王朝時代。人類の言語が分化し、文字が生まれる。 室町時代 ・蕪武の祖が誕生。以降1000年をかけ術体系を確立。 戦前 ・異国十三番館にてクーデターをもくろんだ軍人による要人射殺事件が起きる 60年前 ・石炭の需要減少に伴い浦賀炭鉱が閉鎖。都市部への移住が進む 50年前 ・浦賀採掘場にて大規模な崩落事故が発生、閉鎖される 40年前 ・公害問題により浦賀工業地帯が閉鎖。経営者は遁走。 20年前 ・西部の再開発計画が浮上し開発が進む・浦賀炭鉱山岳住居群最後の入居者が死去。無人集落となる。・のちのアンゲリオン、傭兵となる。 15年前 ・防人灯台が役目を終え、放棄される・防人総合病院が移転のため閉鎖・防人市から咲森市へ市名を改名 数年前 ・冴木鶫、作家として活動を開始。各地を点々とする・傭兵の男、紛争地帯での戦闘の最中銃弾を頭に受け生死を彷徨う。・奇跡的に生還を果たした男はのちにアンゲリオンと名乗るようになる。 5年前 ・主催者が聖板の欠片を入手。研究を開始。 3年前 ・主催者、不完全ながら小聖板の形成が完了。聖板戦争開催のため準備が進む。・北米を拠点とする邪教が召還を行ないファティマ・オーラスが『魔王』を宿す・『魔王』により教団が壊滅。ファティマ・オーラスは魔力を求めて各地を渡り歩く 聖杯戦争開始前 ・主催者が聖板戦争開始のため咲森市を守護していた十四代目燐火を殺害。・妖狐「燐火」は聖板戦争参加者の少女を乗っ取り、聖板戦争参加の権利を手に入れる。・ファティマ・オーラス、聖板戦争参加者より小聖板を奪取。マスターの権利を手に入れる。・冴木鶫、聖板戦争参加のため咲森市へ来訪。・魔術協会よりミュラ・ヴィーネ・キャレットが咲森市に派遣される。・アンゲリオン、咲森市内のアジトの一つにて送られてきた小包から小聖板を発見する。 0日目 ・7騎のサーヴァントが出揃い亜種聖板戦争が勃発 1日目 ・アーチャー陣営、平賀造船所付近でランサー陣営に交渉するが決裂、交戦する。 2日目 ・バーサーカー陣営とセイバー陣営が防人高等学校にて交渉を行うが決裂、交戦する。・ライダー陣営、キャスター陣営、アサシン陣営が異国坂商店街にて交戦するが、主催者の介入により戦闘が中断。 3日目 ・ランサー陣営とバーサーカー陣営が防人灯台にて交戦。 4日目 ・アーチャー陣営とバーサーカー陣営が咲森橋にて接触、交渉の結果交戦せず。・ランサー陣営とアサシン陣営が浦賀工業地帯跡にて交戦。・キャスター陣営とライダー陣営が咲森港にて交戦。 5日目 ・セイバー陣営とランサー陣営が浦賀ナチュラルパークにて接触、交戦。セイバー側より交渉があり戦闘が終結。
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【作品名】真・女神転生 ~モナー戦争~ 【作者】 【配布先】http //o-tokage.hp.infoseek.co.jp/RPG/page/RPGtop.html 【使用ツール】RPGツクール2000 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 ■作品解説 2ch・AA長編版にて連載されていたAAストーリ「真・女神転生 モナー戦争」をゲーム化しようという計画。現在体験版がダウンロード可能。 ■ストーリー AA長編のスレを参照の事。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 ■主要キャラクター AA長編のスレを参照の事。 製作中の模様ね。 -- フィルミフィーニャ (2007-11-27 20 21 27) この作品は最高の作品だ。 俺は今この世界にいる誰よりもこの作品をよく知っている。 これはまるで昔の2chの精神をゲーム化させた物だ。 最近の2chではやる夫だの翠星石だの出てきやがったが、あんなもんをイチャイチャさせたり萌えだのしてやがる二コ厨くずれの新参厨房共は何故あんなキモイだけのものを崇拝するのか。 2chから餓鬼共は消え失せろ。 と、つい熱く語っちまったが、ここは痰壺じゃねえ。 じゃあな -- 名無しさん (2010-06-16 19 55 05) チラシの裏にでもかけとks -- 名無しさん (2010-07-02 01 31 15) iswebライト自体終わったけどどうすんだよこのゲーム -- 名無しさん (2010-11-23 14 24 16) 大丈夫だって。ゲームカバー計画サイトは別のサーバーに移転したから。 -- フィルミフィーニャ (2010-11-25 01 56 39) 他にノクターンイフがあるんだけど、 違う作者だね。あれ。 -- うにゅほ (2017-10-29 19 22 39) 名前 コメント
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日清戦争 ―― 東アジア近代史の転換点 ―― 藤村 道生 岩波新書 http //www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/8/4131270.html 日清戦争は,日本を「圧迫された国」から「圧迫する国」へ転換させた.その意味で,日本近代史上画期的な戦争であった.アジアの民族同士が戦い,全アジアを近代帝国主義の分割競争にひらき,日本の民衆自身が帝国主義化した自国の政府のくびきにつながれる契機となった「痛歎すべき戦争」の全貌を,東アジア史の中で総合的に解明する. 7-2 台湾占領と抗日武装闘争 台湾の歴史・日台関係史
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銀河連邦との戦争、継承戦争と立て続けに起こった戦争は、帝国経済に致命的な傷跡を残してしまった。 終戦より1年。 復興による回復の兆しが見え始める中、大量に解雇した軍人や、行き場を失った傭兵団による治安の悪化が懸念される中、惑星ジ・オアシスでバトルマッチと言う、新しい競技が催された。 『アーマーナイトによる、1対1の戦い』 勝てば富も栄誉も手に入る。 古来より人と言う生き物は、この言葉に弱いらしい。 数多くの者が闘士として戦いに赴き、夢を叶えようとした。
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人類が宇宙に進出してから数世紀、膨大な資源と革新的な技術により、版図は銀河の隅々にまで広がっていった。 当初は銀河連邦が発足し、統治が行われていたが、あまりにも広がり過ぎた人類は、次第に周辺地域で自治勢力が起こり始めた。 緩やかながらも、確実に中央権力が弱まるにつれ、銀河は群雄割拠の様相を見せ始める。 地球と言う星の名が、半ば伝説となり始める頃、辺境より銀河を武力で以て統一せんとする勢力が現れた。 『帝国』である。 辺境開発用人型重機を元に開発された『アーマーナイト』を主軸に、銀河の三分の一を掌握するも、皇帝の崩御を機に、その快進撃は終わりを告げてしまう。 成す術もなく蹂躙され続けていた銀河連邦も、抗戦を続けるだけの力が無く、連邦は帝国の統治を正式なものと認める条件を飲み、講和した。 帝国内部では、空位となった皇帝の座を巡り内戦が勃発。 強大な軍事力が互いにぶつかり合い、泥沼と化していく。 この後、40年に渡る不毛な内乱は、継承戦争と呼ばれる事となった。
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湖畔戦争について 本作品はエディレタプロジェクトの3人によって作られている架空軍事物で、 世界観、宗教、通貨、キャラクターなどの設定をオリジナルで作り上げ、ひとつの世界としてまとめ上げたものです。 大神器王国、ギアルド=アルカトリア帝國の二国に分かれ、主に一人一軍を担当しています。 現在はオフライン、ピクシブなどのオンラインで活動中。 2013 0308 湖畔戦争公式設定資料集発行 缶バッチ 何かありましたらどうぞ 名前 コメント すべてのコメントを見る
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概要 女神ルカとは、ルーイガルドにおける宗派の一つ。 ル・マンティス国、クリート国両国で信仰されているが、女神ルカ降臨地を巡って、両国の間で戦争が起きた。(女神戦争) 伝説 ルカは、翼を宿した天からの使者として降臨し、人々を導いて、侵略者を追い払い国を作り上げ、全ての役目を終えると再び天へ帰ったという伝説をもつが、ル・マンティス国、クリート国、双方が「自分達の国こそルカの降臨によって作られた」と主張し、互いに相手国を「侵略者」と決め付けている。 以下に「神話」をいくつか列挙する。括弧内は存在肯定派の中でも特に現実的な解釈。 光と共に降臨し、その「水面に映る姿さえ眩しかった」と言われる。この一文をしてル・マンティス国は首都シャロッツ、クリート国は聖地クーティを降臨した地としている。(出身地、もしくは名を上げた地のことだろう) 「侵略者」により滅びた村を蘇らせた。(復興させた、ということだろう) 正しき民を率い、「侵略者」の軍勢を追い払った。「侵略者」を率いていたのは、傲慢な暴君だったとも、忌まわしい魔物だったとも、邪神だったとも言われている。(敵が怪物になるのは神話ではよくあること。ただし、神座が関わっているとする説もある) 「侵略者」との戦いでは、陸を海に変え、大地に燃える泥を流した。(火山活動等の自然現象) 海賊、亡霊、魔物を打ち倒し、海を拓いた。(海路を開拓したということ) 自らに従った人々を導いて、二度と再び「侵略者」に敗れることのない強国を作り上げた。(国の指導者になり、発展させた) 新たな世界を救うため、天に帰った。(逝去した) 信仰・逸話 光と水に関わる伝説が多いことから、光と水の女神として崇められることがある(コダン神殿など)。しかし、万能の女神であるとしてこれを否定する信者も多い。 文武両道の女神であるが、ル・マンティス国は「勇と智を兼ね備えた女神」として武人としての側面に、クリート国は「智と勇を兼ね備えた女神」として賢人の側面に重きを置くことが多い。このように両国はささやかな相異を強調し、エスカレートさせる傾向にある。 「侵略者」から人々を守ったとして、盾を盛り込んだ意匠や絵画、彫像が好まれている。 ル・マンティス国、クリート国の両国では熱心に信仰されているが、他宗派からは「相手の信仰を否定するための信仰」になっているとの批判がよくされる。 信者ではないが存在自体は肯定している学者からは「災害や天変地異、外憂を利用して成り上がった優れた為政者が伝説化したもの」だと言われている。しかし、最も多いのは、「ただの伝説」と存在自体を否定、あるいは大半をおとぎ話扱いする学者である。 ノーザ平原の戦いでの大豪雨は「女神ルカの涙」と呼ばれることがある。ただし、当事者であるル・マンティス国、クリート国はこれを忌避している。 女神戦争期には、狂信に奔る者がいる一方で、宗教戦争やそれにまつわる事件に嫌気がさして軍を抜けたり罷免されたりする者も両国で後を絶たなかった。 シャクティアナ統治時代に、「未だに続くこのいがみ合いこそ、女神ルカが見れば悲しむことだろう」と発言した神官が、両国の襲撃者によって殺される事件が起きた。 六界戦争以降に、女神ルカの降臨と帰還について、「ラスブロス以前に転移ゲートを発見した(あるいは作り方を不完全ながら解明した)人物である」との説が唱えられたことがある。即日撤回されたが、ル・マンティス国、クリート国以外では、「珍説」として流布している。 国章 ル・マンティス国 クリート国 互いに「翼を宿した女神」をエンブレムに描いている。
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今日の訪問者 - 太平洋戦争庫 日米交渉 アジ歴セン特別展示 石井秋穂関連リンク New 戦争被害 空襲体験記 その他 自由史観研究会ご意見箱 図書検索 小説 太平洋戦争 目次 重要文書類の焼却 15年戦争資料庫
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リール中央に三女神の絵柄が止まると、疑似連予告のように連続するが 実際には先読み演出の一つで、保留を消費している。 最終的にはリーチまで発展する。 笑顔 < ウインク < 全身
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まもなく敗戦から75年、新型コロナウイルス感染大流行から国民の命を本気で守ろうとする意志もなく、未来世代に見せてはいけない無責任な大人の姿を晒す安倍自民党公明党政権が、間違っても憲法に手をかけてはいけない集団であることが幅広く痛感される2020年夏本番が到来しています。(文と写真:山本宗補) 今年はコロナ禍のため、通常のイベントにはならないが、会場のロビーを利用して、ミニ写真展をやります。展示するテーマは沖縄の「戦争マラリア」です。 取材したのは戦後60年の2005年夏。初めての沖縄取材でもありました。何事も遅すぎることはない、という思いでの取り組みでした。 戦争マラリアの舞台となった石垣島、波照間島、西表島などの八重山諸島で体験者を探し、体験者から紹介され、事態の深刻さを痛感したものです。以下の長文はその時の取材を大まかにまとめたものです。 軍隊は住民の命を守る意思は最初からないことがひしひしと伝わってきます。中国東北部、満州の荒野に関東軍により棄民された満蒙開拓団の人々が被った悲劇を重なります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 《「戦争マラリア」の記憶が風化する前に》 写真と文:山本宗補}}(2005年記に2020年加筆修正) 石垣島に建立された「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑 日本で唯一の地上戦が戦われた沖縄では、敗戦の年の6月23日に組織的戦闘が終わり、米軍死者12500人を含め、死者231000人を出した。わずか90日間あまりの戦闘により沖縄県民の4人に1人が亡くなったという。この中で、いわゆる「戦争マラリア」の犠牲者は3647人にのぼる。 日本軍が沖縄住民の命など始めから守るつもりのなかった事例は数え切れない。「生きて虜囚の辱めを受けず」と軍国主義の洗脳教育の徹底で、多数の住民が集団自決を計っただけでなく、隠れていた壕を日本軍に追い出され米軍の攻撃にさらされたり、スパイ扱いされて斬り殺されるなどの体験談も多く残されている。 「戦争マラリア」は、戦わずして住民が日本軍に殺された事例のひとつだ。3600人という想像を絶する離島の民が、6月末の沖縄戦の終結にも、8月15日の敗戦にも左右されることなく、八重山の片隅でマラリア地獄の中を死んでいった悲劇は、十分な報道がされてこなかった事実だ。 ここでも、天皇と大本営が敗戦を一ヶ月でも二ヵ月でも早く受け入れていれば、多くの民間人も兵士も無駄死などせずに済んだのにと、怒りを新たにする。戦後60年、軍部によって起きた悲劇の生き残りの多くが80代、70代の高齢者となった。人の記憶はいづれ風化して消え去ってしまう。そのためにも、戦争マラリアの生存者の話と写真を記録に残しておこうと思う。 ・拒否できない軍命と疎開先 戦争マラリアは、地上戦のなかった八重山諸島(石垣島、竹富島、西表島、鳩間島、波照間島、黒島、新城島、仲御神島)で起きた。沖縄の最も南に位置する八重山諸島では、米英軍による空襲は44年10月から始まり艦砲射撃もあったが上陸作戦は行われなかった。45年4月、沖縄中部に上陸した米軍の沖縄侵攻の戦略上、重要でなくなったためだ。 八重山諸島地図 しかし、石垣島の八重山守備軍は、無病地の島民を軍命によりマラリア有病地へ疎開させた。石垣島南部一帯の住民は中部や北部の有病地へ、竹富、波照間、黒島、新城、仲御神島の住民は西表島の海岸地帯へと避難させられた。(西表島の疎開先によっては、マラリアの発病と死亡率が大きく異なった) 各島の牛馬や豚、ヤギなどの家畜は屠殺を命じられ、保存肉は日本軍の食糧になったといわれている。 波照間寛さんは島の牛馬の屠畜の手助けをした。 「西表島への強制疎開を指揮した山下軍曹(国民学校の指導員として離島に送り込まれた陸軍中野学校出身の特務兵)の命令で、米軍の上陸を想定し、牛馬を屠殺する。島に残る年寄りを手助けし、牛馬60頭あまりを屠殺した。牛を屠殺場まで引っ張っていったり、死んだ牛馬を浜辺近くのサンペイ壕に埋め、アダンの葉をかぶせた」 日本軍は44年に八重山郡島各地でマラリアなどの病気調査を終え、有病地帯を把握していた。また、マラリアは明治時代から八重山の風土病としてよく知られてもいた。 軍命による疎開は波照間島では45年4月頃始まり、疎開先での食糧が欠乏し始め抵抗力が落ち始める頃に雨季入りした。石垣島住民の疎開は6月に入って始まった。発病しても、抗マラリア薬などは手に入らないため、発病患者が一人二人と病死し始めた。しかし、本当のマラリア地獄は疎開が解除された7月以降、故郷に帰還してからだった。家に戻っても食糧も薬もないために、ほとんどの住民が発病し生死を彷徨った。 人口31671人のうち、16884人の二人に一人がマラリアを発病し、3647人が病死した。6月から12月までのわずか半年の間の出来事だった。主に10歳以下の幼児と61歳以上の高齢者に死者が多かった。石垣島の日本軍もキニーネなどの抗マラリア薬の欠乏で、680人の将兵が戦わずしてマラリア死した。 2002年、東南アジア有数のマラリア地帯、タイ・ビルマ国境の町にある無料クリニック。ビルマ側から運ばれてきた若者だったが、受付に着いた瞬間に膝から崩れ落ちた。マラリアによる病死だった。 死亡率が高いのは「熱帯熱マラリア」だったから キニーネさえ手に入れば、衰弱していてもこれだけ多数の人がマラリアで死に至ることはないだろう。例えば、私が取材で10数回訪れたことのあるビルマ・タイ国境周辺は、東南アジアでも有数のマラリア感染地域だが、薬が手に入らない地元住民にこれだけ死亡率が高い話しは聞いたことがない。 私自身、これまでに4度マラリアを発病し、一度は熱帯熱マラリアだった。発病による高熱と吐き気と下痢で一気に体力が奪われ、10歳老けたように感じた。手遅れになる前にマラリア薬を服用することで助かってきた。 しかし、死亡率が異常に高い原因は、戦争マラリアの6割がマラリアの中で最もやっかいで、若くても死に至る「熱帯熱マラリア」だったからのようだ。波照間島生まれで当時10歳の小学生だった平田登美さんの話しは、生存者に共通していた。 「身体がものすごく寒くて、2-3人で押さえつけても震えが止まらない、頭はボーっとして。脾臓が肥大し腹がポコッと膨れた」 平田登美さんは当時は10歳で小学校4年。父と母方の祖父母がマラリアで死亡。疎開先の西表島南風見田で、「三つ上の兄と同級の冨底さんは、ひどく叩かれて二日後に死亡した。兄も腕を叩かれ、しばらくは腕が自由に動かなくなった。島に帰る前に発病して、ぼーとして覚えていない。父がここで死なすより(ハテルマ)島で死なせたいって」 ・波照間島の死者が異常に多い理由 波照間島では山下という偽名を使い、国民学校指導員の身分で赴任していた軍のスパイの存在で、疎開が徹底して行われた。その結果、島民1590人中477人がマラリア死だった。10人中3人が死んだことになる。人口1345人の黒島島民が、同じ西表島に疎開(別の海岸地帯)したものの、マラリア死が19人だけだったことと比較すると、波照間島の犠牲者数は異常だ。 当時23歳で現在(取材当時)は83歳になる大泊ミツフさんは、自分の家族と嫁いだ先の家族を合わせると、16人の家族がマラリアで病死した最も不運な方だ。自らも発病し、家族全員の最後を看取ることができなかったことをいまでも申し訳ないことと悔いていた。 「一日たりとも死んだ人のことを考えないことはないよ」 家族親族合わせて16人を失った大泊ミツフさん。 大泊さんと同じ集落に住む浦仲孝子さんは当時13歳。「私は家族11人亡くなったよ」と話し、7人兄弟のうち二人だけ助かったと言った。 浦中孝子さん 疎開先が悪性マラリアが蔓延する地区だったことと、帰島後の食糧難が波照間島民の悲劇に直結した。島の食糧を根絶したのは山下だった。山下は陸軍中野学校出身の特務兵で、牛馬などの家畜の一部を島民に命じて屠畜、遺棄させ、その上残る家畜は屠畜後に島のカツオ工場で薫製にして日本軍の食糧にしたと指摘されている。(波照間寛さんの証言参照) 本来は豊かな島に帰島後、住民が飢えとマラリア地獄に苦しんだのは疎開中に軍人としての本性を見せた山下軍曹の役割抜きには説明できない。 ・「忘勿石 ハテルマ シキナ」 西表島は全島が有病地だったが、中でも大泊さんたちが疎開した東部海岸の南風見田(はえみだ)海岸は悪性のマラリア地区だった。疎開解除で帰島する8月始めまでに84人が犠牲となった。これらの犠牲者を追悼する慰霊碑が南風見田海岸に建つ。隣にある大岩には、軍命に抵抗できずにマラリアにより多くの生徒を失った無念さを「忘勿石(忘れな石) ハテルマ シキナ」と刻んだ10文字が鮮明に残されている。 仲底善光さんは強制疎開当時は小学校3年生。「ハエをを取らないことを理由に、怠けたといって青竹がボロボロになるまで手やけつを叩かれた。6年生の冨底はそのために熱発して亡くなった。一生忘れないよ」 当時の波照間国民学校校長だった識名信升先生が、帰島に際して残したものだ。識名校長は島民が疎開先で全滅することを怖れ、石垣島の宮崎旅団長に直接かけあい疎開解除の許可を取り付けたと人物として生存者の記憶に深く刻まれている。 波照間島民がマラリアで苦しんだ西表島南風見田海岸に建立された石碑。 沖縄本島本部生まれの平田一雄さんは民宿「南風荘」を25年前から開業。平田登美さんの夫。昭和49年(1974)に西表島に移る。切手収集家であり新聞へ自然保護や戦争マラリアの継承を訴える投稿マニア。平田さんは、波照間国民学校校長だった識名信升先生が、「忘勿石(忘れな石) ハテルマ シキナ」と岩場に刻んだ後がある。 慰霊碑は生存者や遺族たちの募金で92年に建てられ、八重山の海を挟んで学童慰霊碑と向かい合って建つ。岩に刻まれた10文字と慰霊碑は、日本の最南端のはずれで忘れられてきた戦争マラリアの悲劇を伝える平和教育の発信地となっている。 帰島にただ一人反対した人物が、米軍上陸時の徹底抗戦に備え山中に避難小屋を設営させていた山下虎雄軍曹だ。この山下については別項で触れるが、彼は各離島に送り込まれていたスパイの一人だった。米軍進駐後、民間人になりすまして島を脱出し、戦後も島民に全く謝罪することも戦犯として断罪されることもないままに生き延びた。 ・石垣島のマラリア死は全体の7割弱 石垣島民のマラリアによる死者数もおびただしい。当時の石垣島では多数の住民が居住する南部一帯が無病地域で、疎開先の中部や北部のジャングルがよほど悪性マラリアの感染地帯だったに違いない。 登野城地区住民3804人中633人が死亡。大川地区住民2465人中226人が死亡。真栄里地区住民239人中88人が死亡。平得地区住民613人中264人が死亡。大浜地区住民1866人中479人が死亡。 資料から引用すると、当時10歳で真栄里地区住民だった村福長英さんは、石垣島中部の白水に避難し、母、長女、次女、三女の家族四人をマラリアにより失っている。石垣島だけで約2500人がマラリア死したとみられる。 島村修さんは19歳で石垣島防衛の宮崎旅団に現地入隊。米軍の空襲が下火になった6月頃から部隊内でもマラリア患者が出始め、マラリアで丸倒れした一個中隊も出たという。武装解除の時、兵器係が菊の御紋をヤスリで削った。9月に除隊し帰島すると家族みんながマラリアで倒れていて、自分も発病した。 「12月ごろようやく起きあがれた。看病疲れで父と兄の子ども3人がマラリア死。出棺は手を合わせただけだった。自分も弱っていたけど、一度だけ14~5歳の女の子を二人で担いだ。マラリアに罹らなかった長兄は、毎日他の人の葬式に出る人。遺体はムシロにくるんで浜の近くで土を掘って埋めた。戦後の昭和22~3年ごろ、島内と西表島の大原で骨を収骨して一気に片づけた。東隣と裏の家族は家族丸倒れで全滅に近かった。波照間では500人の人間が死んだ。永遠に忘れてはいけない、風化させないために島の力で将来は慰霊碑を作りたい」 9月に米軍が八重山に進駐したのは9月だが、マラリア対策として抗マラリア薬のアテブリンを患者に配り始めたのは12月下旬になってからだ。マラリアの流行から半年、ようやくマラリア地獄が収束に向かうことになった。 戦後、6年間で約6000人の計画移民が沖縄本島などから入植した石垣島では、1954年から57年まで、「移民マラリア」が流行ったこともある。現在も石垣島の一部の河川には、マラリアを媒介とするハマダラ蚊の生息が確認されている。 ・国家賠償請求の政治決着 戦争マラリアの遺族による国家補償の請求は、結果からいうと曖昧な政治的解決で1999年にピリオドが打たれた。遺族への見舞金もない。国家補償を請求する動きは戦後44年が過ぎてから起きた。遺族らが「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成し、国に補償を求める活動を始めた。石垣市議会、竹富町議会が県と国へ補償を要請し、沖縄県議会は県と国へ意見書を提出した。 1995年、政府(村山内閣)は石垣島と波照間島の軍命による住民の強制避難を認めた。与党戦後五〇年問題プロジェクトチームは、石垣、波照間、黒島、新城、鳩間島の五島での軍命による住民の強制避難を認め、政治的解決策を狙った。その結果、二億円が八重山地域の慰しゃ事業として政府に要求されたが、見舞金は保留とされた。 この年の12月、95年度予算で総額三億円のマラリア慰しゃ事業経費が認められた。事業の内容は、慰霊碑建立、マラリア記念館の建設、マラリア死没者資料収集・編集作業、死没者追悼事業からなり、遺族に対する見舞金はなかった。 「八重山戦争マラリア犠牲者追悼・慰霊碑」が石垣市のバンナ公園内に建てられた(97年)。犠牲者を追悼する資料・証言集の「悲しみをのり越えて」が発刊された(98年)。戦争マラリアに関する常設展示施設として「八重山平和祈念館」が石垣市にオープンした(99年)。遺族の「援護会」は解散し(99年)、「八重山戦争マラリア遺族会」が発足した(2001年)。島民477人が戦争マラリアの犠牲になった波照間島の遺族は、慰しゃ事業で波照間島にも慰霊碑が建立される計画も含まれていたと指摘したが、慰しゃ事業は完了しているようだ。 ・戦争マラリアは軍隊の役割をいまに伝える 波照間島生まれで当時8歳だった玉城功一さん(68歳)は、1970年代に沖縄県史の編纂に関わり、50人ほどの波照間島民からマラリア体験談を集めて回った。島民の証言から、山下軍曹が住民をマラリア地獄へ送り込んだ人だと確信した。 玉城功一さん(石垣島) 「島の歴史の中で半年の空白を作った。空白の6ヶ月は牛馬の生き地獄となり、島民が帰ったら人間のマラリア地獄だった。まだ、島には屠殺された家畜の慰霊碑もない。ムシャマー(先祖供養)の行事にも戦争マラリアの証言を含めた慰霊祭もない。島でも風化して子どもたちの父母も戦争マラリアの実相を知らない。かつての戦争体験を確認し、いまの政治の動きを考えてみる必要がある。かつての日本軍はどうだったか。山下の役割が象徴的だ。シマンチュを守らなかっただけでなく、食糧確保のために死地へ住民を追いやった。軍は誰のものか。形を変えても軍隊は本質的には変わらない。わかりやすいのが波照間の戦争マラリアだ」